タロットの【月の逆位置】が出た今週は、これまでモヤモヤしていたことや、不安でぐるぐる考えすぎていたことに、少しずつ光が差してきそうな気配。
「なんであの人、あんな態度だったんだろう?」「私、なんであのときあんなに不安だったんだろう?」
そんな〝心の霧〟が、ゆっくり晴れていき、雲隠れしていた月がはっきり見えるように、色々なことが明らかになるタイミングです。
私たちがふと、「見えないものを知りたい」「本来の姿を知りたい」「過去に戻りたい」「あの頃の自分に戻りたい」「あの人とやり直したい」って思ってしまうのも、ある意味、夜空にかいまみえる、〝月が欲しい〟ような瞬間なのかもしれません。
でも今週の【月】逆位置は、その「はっきりと見えないもの、わからないもの」「失われた物語」への執着から、少しずつ心を解き放っていく流れ。
もちろん、すぐにスッキリあきらめられるわけじゃないし、無理に忘れようとする必要もありません。
ただ、いまの自分がちゃんと「今いる物語」を生きていくために、大事なタイミングです。
これまでの霧がゆっくり晴れていき、梅雨晴れや夜明けのように、現実が露わになっていくのです。
深呼吸して、今日できる小さな選択を、大事にしてあげてくださいね。
カミュの戯曲『カリギュラ』のなかで、繰り返される、「月が欲しい」という不可能な願い。
妹を失った皇帝・カリギュラは、彼女がいた過去の世界を求め続けるように、月をほしがります。その手段として、自らの手で不条理を巻き起こしまくり、暴君として、世の中のルールや因果関係、文脈をひっかきまわします。
カミュはまた、『異邦人』の中では、主人公・ムルソーの殺人の動機として、「太陽が眩しかったから」という台詞を投げかけています。<→『異邦人』ムルソーの「太陽が眩しかったから」とタロット【愚者】>
ついつい、太陽とか月とかが大好きな天体観測少年かなと思ってしまいますが、これらはまるで「物語の外側から干渉してくる、自然現象の顔をした異常気象」のような存在のように見えます。
筆者は、カミュが不条理文学の巨匠であることを踏まえ、これらの天体は、物語(地球上)とは別の地平、つまり、小説内で構築された〝文脈の外側の世界〟ーー別の物語からの象徴のように解釈しています。
今いる現実がむしろ偽物のような、夜闇にいるようなカリギュラには、その世界の裂け目に、まるで月が「本来ありえた姿や、失われた物語」のように顔をだし、捉えがたき光を放っていたのだと。
現在の物語からはみ出した、ここにはない世界を取り戻すために、文脈をめちゃくちゃにひっかきまわし、因果関係を操作し、支配者として立場や王座を奪還するように、物語の内部から、限りなく書き手や神の立ち位置に近づこうとしていたのだと。
一方で、『異邦人』のムルソーは、「どうせ、もっと太陽みたいに眩しい世界があるなら、こんな地平の物語なんて、それに比べたら、まるで意味なんて眩んでしまうくらい、とるにたらないものなんだ」とでもいうように、太陽に眩ませられ、主人公でありながら物語中の因果に組み込まれない、文脈で構築される世界の外側の異邦人に、仕立てられたのだと。
『カリギュラ』の最期、「この夜は重い、人間の苦悩の重さだ」など激しく苦悩し、笑い、あえぎ、暗殺される際「歴史の中にはいるんだ、カリギュラ、歴史のなかに!」と、その『戯曲という虚構』に組み込まれ終わらされることを、自らの予言で先読みするように、物語の主導権を、文脈の内部から無理やり、書き手の上から上書きするように、殺された直後も、「そのように描く世界という強制」に抗いつづけるように、「俺はまだ生きている!」と叫びながら幕を閉じます。
世界の構造や外側を、内部からかきまわして、最後まで、月をなんとか露わにするように、手に入れようとしたカリギュラは、タロット【月の逆位置】を語るにふさわしい存在ですね。
高校時代、筆者は女だけの演劇部で『カリギュラ』を演じたため、ついつい熱くなってしまいました。
その後、カリギュラの最期までの側近・エリコン役は弁護士になり、カリギュラの寵愛を受けるも謀反側に回った詩人・シピオン役は検事になり、謀反を起こす貴族・ケレアは院卒で大手メーカーに行き、カリギュラを愛するも本人に殺される愛人セゾニア役は、政治学者として大学教員になり、カリギュラ役は、占い師になりました。
いまでも台詞、暗唱できます。アルベール・カミュの顔ファンです。
今では、あのアオハルだった日々こそが、もう不可能なのに、また欲しくなってしまう、夜空に煌めく月のようです♪
そんなときめきを胸の奥で大事にしながら、【月の逆位置】のカードのように、現実を晴れさせていきたいですね♪
今週も、あなたの気持ちが整う生活を応援しています♪
それでは、また来週!